言葉の誤用の定着は苦々しいものですが、世の中には他にもいろいろな間違いが蔓延しております。
みるたびに気になるのが、食べ物を口に運ぶ際の「手皿」であります。
マナー上はよくないとされているのにあれはなくならず、いろんなことにうるさいマツコもよくやっています。
敢えてやる意味を考えると、途中で下に例えば刺身につけた醤油をこぼさないように手を添えているのだと思いますが、だったら小皿を一緒に持ってくればもし手が汚れても拭かなくていいのでそっちの方がマナーがどうこうを置いておいても合理的でもあるという気がするんですけど。
お皿をテーブルから上げるのは基本的にダメなフランス料理やイタリアンでもフォークに添え手して食べているのを見たことがありませんし、和食の多くは食器の方を口に近づけるというか接していいので敢えて手皿をするという行動の意味がイマイチわかりません。お上品に見せようとかいう見た目の問題ですかね。
おかしな敬語群も、普通に言うのはさすがにまずいだろくらいのアラームが頭の中で鳴っているので何かやらなくちゃという気持ちにはなっているけど、かと言って引き出しを開けても何も入っていないのでとりあえず知っていることを総動員して、例えば何にでも「させていただく」をくっつけておけという半ば思考停止というか機械的な感じになっている気がします。
厄介なのは、「させていただく」はどんな動詞にもくっつけることができる(それは正解という意味でなく形式的に)のでとりあえずはしのげてしまうということです。
こういった間違いが広まるきっかけはやはりテレビが大きな役割を果たしていて、言葉の習得は基本他の人の真似から入るのでおかしな敬語を使っている人を見なければいいのですが、出演基準はそこには置かれていないので知らず知らずのうちに汚染されていっているのだと思われます。
結局、正しいという言い方は語弊がありますが、ちゃんとした日本語に普段から多く触れる機会を作っておけば自然に身につき、おかしな日本語に出合うと違和感を感じるセンスが身につくのではないかと思います。
それはどうすれば可能かというと読書なのではないでしょうか。
ネットの情報はとても貴重ですが、誰でも書いているのでまさに玉石混交ですが、書籍はその確率がだいぶ低いので言葉本来の使い方だったり語彙を増やすにはもってこいだと先の文化庁の「国語に対する意識調査」の結果を見た普段から本をよく読んでいる方々は思われたに違いありません。
昨日ラジオでプロ野球の試合結果を言っている中で、「逆転サヨナラホームラン」と言っていましたが(昨日だけではなく非常によく耳にします)、サヨナラホームランは逆転要素を必ず含んでいるんだから逆転と言わなくてもいいのではと毎回思います。
屋上屋を架すとはまさにこのことだと思います。派手に言いたいので修飾語を重ねたいという気持ちからきているのではないかと思うのですが。
ニチレイの「本格炒め炒飯」は「炒」の字が2度入っていますが、これは炒めてあるということを強調したいので敢えてそうしたということですけど。